「さて、ここで問題だ」
  唐突に、私はエルコスさんと対峙した。私の前にちょこんと陣取るエルコスさんは、「何でしょうか」と。
「日本一のナニナニ、というのは枚挙に暇はない。そうだな?」
「ええ、確かに……」
  たとえば自転車に関連して挙げるなら、車道で到達できる最高地点は乗鞍畳平の2716メートル、日本一長い国道はR4の740キロだ。鉄道なんかだと、日本一営業速度の速いのは東北新幹線はやぶさの時速360キロだし、ついでに挙げると、日本一標高の高い位置に役場があるのは長野県川上村で、日本一長い川は信濃川だ。
「んで、日本の元国有鉄道、すなわちJRの……」
「野辺山駅周辺の1375メートルですね?」
  正解。だけどさ、もうちょっとタメるとかさぁ。なんて私が思っていると、
「それじゃあ、今回は野辺山ですねっ!」
  なんて言ってしまうのさ、彼女が。
  今年も夏の時期は過ぎ、季節はすでに秋。紅葉の季節にはまだ早いが、高原地帯をのんびり流すのも悪くないだろうか。
  それに、目の前で目をキラキラさせている彼女の前で、「仕事だから」なんて言おうものなら、報復でバーストとかしかねないし。
「んじゃ、土曜は仕事だから、日曜に行くか」
「やたー!  久しぶりの出撃ですね!」
  まあ、ここ最近、仕事が理由でマトモに休日を消化できていないのだけれど、一日くらいは何とかなるだろう。

「では、プランニングはわたしが行いますので」
  と、エルコスさんが率先して動いてくれたので、今回はとても楽だ。言われるがままに、私は早朝、高崎線の尾久駅へ。
「……ん?」
「どうしました?」
  いや、なんでもない、なんでもないのだが……
  私は感じていた。まあ、鉄道とか地図に詳しい人は、真っ先に気付くようなものだが。
  そして、5:19発の高崎行がホームにやってきて、とりあえずグリーン券を買って、グリーン車に……
「……んん!?」
「えっと、これに乗って、本庄駅で降りますよ」
  ……今、エルコスさんはハッキリと言った。「本庄駅で降りる」と。
  この瞬間、私は何かがおかしいと気づき、そして確信した。「ああ、盛大に間違えてるな」と。
  ただ、目の前でルンルンしてるエルコスさんに水を差すのもアレなのと、間違いに気づいた時の落差が楽しみになったので、
「本庄駅ね」
  敢えてそのままにしておいた。
  さて、尾久駅を出た始発は、定刻通り本庄駅に到着。ここでエルコスさんを復元して、富岡方面へ向かう。彼女曰く、目的地まではだいたい50キロくらい走るらしい。
「だいたい3時間くらいかな?」
「少しだけ登りますが、それほどきつい登りではなさそうです」
  ルートは、R254に沿う形。しかも、途中で上信鉄道とも並走するので、確かにきつい登りはなさそうだ。
  6:55、本庄駅を出発し、まずは進路を西に。R254と合流するために裏道を往く。県道23号を経てR254に出て、藤岡を過ぎれば上信鉄道が寄り添ってくるという算段だ。
「途中、富岡の製糸場がありますよ」
「ああ、あの世界遺産になったヤツか」
  今や一大観光地になったアレである。ただし、寄るかどうかといえば、たぶん寄らないのだが。
「まあ、自転車に乗るのが主だから、今回はいいや」
  という訳で、神流川を渡って群馬県に入り、藤岡の街を大きく迂回したところで、吉井の街に着いた。上信鉄道との並走区間も、この街からとなる。
「ちょっとだけ、駅を見ていきませんか?」
「いいよ」
  国道からそれて、少し走ると吉井の駅。小さいながらも駅員さんが掃除をして、到着する列車を見送っていた。今時なかなか見られない光景だなと思い、思わずカメラを向けた。
  なんだかイイ雰囲気だなぁ、とか思っていると、ごみ箱にはスタバとドトールの文字が。
「時代を感じますね」
「だな。まあ、片づける方からすると切実な問題なのだろう」
  なお、吉井の街は石碑の里という二つ名がある。クルマなんかだと上信越道のいちインターがある街くらいにしか思っていなかったが、こういう発見があるのは自転車ならではだ。
  さて、ふたたびR254に復帰したところで、そろそろ補給でも、とコンビニに不時着し、あとで昼食代わりに食べようと菓子パンを仕込んでおく。そして、水も。
「水くらいちゃんとスタートの時に用意してください!」
「悪い癖になっている」
  エルコスさんが指摘するのも当然で、幾度かこれで痛い目を見ている。しかし、身体が慣れてしまったのか、50キロくらいは無補給で走れる。ヘタすりゃ自宅からエノモトまで無補給もザラで、揚句にはサイクルイベントのスタート時点で水なし、なんてこともあったり。
「どうも悪い癖が抜けない」
「そこは改善すべきです!」
  こればっかりはこちらの落ち度なので、本格的に考えなければなるまい。
  さて、補給を済ませてリスタート。……ところが今度は、アクションカムの角度がおかしい。マウントのネジがナメてしまい、ちゃんと固定ができないのだ。
「振動でズレる」
  その状況がだんだんヒドくなったので、一度停まってネジの増し締め。すると、マウントからネジがポロリ。
「なんじゃこれ?」
「ネジとマウントが緩んでたみたいですね」
  幸い、マウント側は雌ねじが切ってあるので、携帯工具で増し締めして事なきを得る。しかし、こりゃ接着剤でガッチリ固定するしかないか。
「そもそも、その横向きステーに問題があるのですよ」
  と、エルコスさんが言う。
「アルミのL字アングルを加工しただけでは強度が出なくて振動するのです。いっそのこと……」
  エルコスさんが示した方法、それは、マウントを下向きにして、カメラをさかさまに取り付けるやり方だった。幸い、アクションカムには、上下を反転させる機能というのがあるので。これを使えば自作マウントの必要はなくなる。
「とりあえずそれは、次の出撃までに検討する、ということで」
「前向きな検討を。今回は工具も少ないので、このまま凌ぎましょう」
  緩むアクションカムと格闘しながら、富岡製糸場を通過し、難読地名でお馴染みの南蛇井まで来た。駅に到着したとき、ちょうど列車が到着するところだった。
  ホームのベンチに腰かけていたお婆ちゃんが、列車の到着とともに腰を上げた。そして、シマウマ柄の列車に乗り込むと、列車はゆっくりと動き出した。
  よくある日常がそこにあり、グッとくる瞬間に、エルコスさんが声を上げる。
「大先生、写真撮りましょう!」
「そうだな」
  そして一枚、また一枚、撮ってみて気付いたが、
「ハラ周りがだらしねーな」
「そう思うならば節制してください。跨られるこちらの身にもなってほしいです」
  ささやかに怒られてしまった。

  下仁田駅には9:30到着。上信鉄道の終着駅である。
「かつては、ここから信濃のほうへ延伸する計画もあったようですよ」
「あの山地を突き抜けるのか。どんなルート引いてたんだ……?」
  エルコスさん曰く、小海線の羽黒下駅とつながる計画だったらしい。すなわち、これから向かうルートに沿っているということが分かる。
  しかし、今やその沿線状況から考えて、それが実現することはほぼないだろう。何せ、これから通ろうとしているのは、高齢者が多数を占めていて自治体が消滅する危機に瀕した、あの……
「……え?」
  エルコスさんが小さく声を上げ、私の言葉を遮った。いつもとは違う、その声質。
「エルコスさん、あとどれくらい?」
「えっと、確かあと10キロくらい……  ですけど……?」
  ここにきて、エルコスさんに異変が訪れた。明らかに、何か想定外のことが起こっているような感じだが。
「あれ、おかしい……?  でも、そんなはずは……  間違ってはいないはず……?」
「どうした?」
  私の問いに、しかしエルコスさんは、
「いえ、大丈夫です」
  そう答えた。続けて、
「野辺山のある南牧村へは、ここからあと10キロくらいで着くはずです。きっと、何かの間違いでしょう」
  そう続けたのだ。確かに、地図上ではここから西に10キロ走ると、南牧村という地名が見える。
「ならば、そろそろ行こう。早く野辺山の高原地帯走りたい」
「もちろんです!」
  そうして、私たちは県道45号を西に進んだ。そして、南牧村に到着した。
「……………………!?」

  群馬県甘楽郡南牧村。高齢化率日本一の自治体である。交通機関はコミュニティバスのみで、鉄路はない。
「ど、どういうこと……  なんで……!?」
  明らかに狼狽するエルコスさん。何度も、自身のデータベースと現在地をリンクさせる。だいたい野辺山周辺にいるはずなのに、目の前の景色は明らかに違う。本当であれば高原地帯にいるはずなのに、今いるのは渓谷の底。
「え、なんで……  なんで……!?」
  さて、そろそろネタばらしをするか。私はエルコスさんにこう指示を出した。
「縮尺を下げて、もっと細かく調べてごらん」と。
  怪訝そうなエルコスさんは、しかし言われたとおりに再度、データベースにアクセスし、数分後、
「あ」
  ものすごくマヌケな声を出した。
  長野県南佐久郡南牧村。そこから北東におよそ20キロほど視点をずらすと、そこにあるのは……
「南牧村……」
「そう、今我々がいる場所だね」
  群馬県甘楽郡南牧村だった。
  鉄道とか地図に詳しい人にはご存じな話だが、実は南牧という名前の村は日本にふたつある。しかも、直線距離にして20キロ程度しか離れていない場所に。
  片方は、先述の群馬県甘楽郡南牧村。読みは「なんもくむら」で、自治体消滅の問題と戦っている村。
  対して、後述は長野県南佐久郡南牧村で、こちらは「みなみまきむら」という。野辺山高原を擁する一大観光地だ。
  このふたつの自治体、調べた限りでは関係は希薄で、名前も偶然そうなったようだ。興味深いのは、両者の距離が至近であることだ。仙台と川内、くらいだと間違える方がどうかしているが、漢字の表記が同じで、おまけに距離が近いのであれば、混同もやむなし、といったところだろうか。
「し……  知ってたんですか?」
  ものすごい涙目で、そしてものすごい形相で、エルコスさんは私を睨んだ。まあ、分からんでもないが。私はドヤ顔でこう言った。
「尾久から北上するルートを選んだ時点で、『あ、やっちまったな』って思っt……」
「うわーん、もうかえるぅぅ!」
  そして彼女は、マジ泣きしたのだった。

「いいかげん機嫌直せよ」
「うぅぅ、えぐっ、大先生のバカぁ~!」
  ひとしきりエルコスさんをヘコませたところで、そろそろ本題に入らねばなるまい。
  南牧村から南牧村までは……  いや、これじゃ分かりにくいので表現を改めると、「群馬の南牧」から「長野の南牧」までは、先述のとおり直線距離で約20キロ程度しかなく、行こうと思えば行けない距離ではない。むしろ、山岳サイクリングのメッカみたいな場所で、それはそれは楽しい峠道が待っている訳で。
「では、改めてプランニングしてもらおうk……」
「もう知りませんっ!」
  あちゃぁ。本当にヘコんでるみたいだ。仕方ない、ここはノーヒントで歩みを進めてみよう。
  県道45を南下して塩ノ沢峠直下をトンネルで抜けると、上野村に出る。そこから長野側に抜けるルートは大きく分けてふたつあり、ひとつはR299で十石峠を抜けるルート、もうひとつは県道124でぶどう峠を抜けるルートだ。野辺山へ向かうには、後者のほうが最短距離となりそうだし、前者に至っては通れるかどうかが分からない。
「という訳なので、これから峠を越える。いいね?」
「大丈夫なのですか?  ぶどう峠は……」
「ここまで来てしまった以上、正面突破しかあるまい」
  来た道を引き返して下仁田から輪行、という離脱パターンもなくはない。しかし、そんな選択肢を選ぶ我々でもなく、
「いいかげん機嫌直せ。共闘しなけりゃ越えられまい」
「……わかりました」
  ちょっとだけ口調を変えて、私はエルコスさんに命じた(あまりこういうことはしないのだけど)。コトの重大さを察知し、エルコスさんも覚悟を決めたようだ。すぐに、越えるべき峠の情報が出力される。
「これから越える峠、特にぶどう峠は、平均勾配がだいたい8%くらいd……」
「まじかー!?」
  思っていた以上にコトは重大っぽかったようだ。
  とりあえず覚悟を決めて、最初の難関、塩ノ沢峠にとりかかる。いきなりインナーでスタートし、ゆっくりのんびり、と思ったら……
「勾配が10%を超えてますね」
「来るぜ来るぜ、ズドンと来るぜ!?」
  もういきなり山場であった。どうにかこうにか踏ん張って登りを処理していくが、勾配は一向に緩む気配がない。旧道との交点の前後で、勾配は平均7%近くを記録する。
  いつもの癖で、インナーローを残していると、即座にエルコスさんから怒られる。
「無理をしない!」
「はいぃぃっ!?」
  と言いつつも、きっちり25Tでクリアする。
  山肌に隠れて先が見通せない道筋ではあるが、遠くにぽっかり開いた大穴が見えてくると、登り勾配もあと僅か、ということになる。
「椿坂のように、片勾配でないといいのだけど」
  なんて心配するのはどうもよくないらしく、トンネルに入っても登り勾配は続いている。
「あとどれだけあるんだ!?」
「このトンネルは約3キロはあるそうです」
  まあ、早い話が、3キロの登りということだ。
  ただうっすらと登っているだけなら可愛げがあるが、このトンネルにはセンターポールが立っている。すなわち、後続車は車線を跨いでの追い越しができない。
「プレッシャーに負けないでください!」
「プレッシャーに負ける気しかしないけどな!」
  そして、トンネルの中央部で上野村に入る。群馬の最果てで、御巣鷹山がある場所と言えば、昭和の人ならピンとくるはず。
「こんな場所だったのですね……」
「下手すれば、首都圏に墜落していたかもしれないと言われている。まあ、良い話ではないけどね」
  やがて片勾配のトンネルを出る。出たところから下り勾配で、しばし下っていくと、R299との交点に出る。右折すれば十石峠を経て佐久へ、左折すれば今日のスタート地点である、本庄に至るR462に至る。
  ぶどう峠への道が分からず、その交差点を右折してしまい、一瞬だが肝を冷やした。十石峠への道は、先述の通り通行止めになっている確率が高く、この日も案の定通行止めになっていた。
「うそ……  抜けられない……!?」
「いや、そもそもこっちじゃない」
  ぶどう峠に至る県道124は、今の交差点を左折しなければいけなかったようだ。とりあえずはホッとした。
「通り抜けられなかったら、戻るしか方法がなかった訳だ」
「いえ、あるにはあるのですが……」
  八丁峠を越えて中津川林道を経るルートのことを指しているようだが、峠に至るおよそ17キロは、関東屈指のダート道。以前、奥日光で再起不能のトラウマを植え付けられた我々にとっては、そもそも議論の余地なく、
「絶対にイヤですからね!」
「言うまでもなく、私もイヤだ」
  そういう結論に至る。まあ、仮に採択したところで、とんでもない遠回りになるのだけど。
「……で、この峠の情報をもう少し詳しく教えておくれ」
「長野側に抜ける峠としては歴史が新しい峠です。群馬側は九十九折りが続く線形で、ランドルーヌの界隈では、一級の峠とのことです」
「つまり、高難易度ってことか……」
  とはいえ、群馬県上野村という場所は、文字通り群馬県の最深部であり、ここまで来てしまうと、ギブアッップすることすら許されない。正面突破をするか、来た道を戻るかしか道はなく、少なくとも輪行でエスケープという選択肢はあり得ない。
  となれば、行くしかない。早速、県道124に取りつき、『処理』を開始した。
  しばらくはのんびりとした登り坂が続いていく。一級の峠、という雰囲気はまだ微塵も感じられないが。
「ホントにこの道か?」
「間違いなさそうです。看板上では、小海へ続いています」
  そして、エルコスさんの言ったことを裏付けるかのように、御巣鷹の尾根方面に伸びる交差点に差し掛かる。左折すると御巣鷹の尾根、そして直進すればぶどう峠である。……直進できれば、だが。
「通れねーじゃねーか!?」
「いや、待ってください。迂回路があります」
  通行止の看板に肝を冷やしたが、どうやら通れない箇所は限定的なようで、しおじの湯の脇を通って本線に戻ることができそうだ。
「本格的な登りは、まだ先になります。ですから、補給できるのはここが最後と考えてください」
「そういや、ボトルが一本カラになってたな」
  途中で干からびたらコトだ。しおじの湯には売店があるほか、自販機もあるので水分の補給は問題ない。食べ物は、というと……
「さっき菓子パン仕入れてた」
「学習してますね!」
  小腹が減ったので、ジャムパンに齧り付く。これで頂上まで持ってくれればよいのだけど。
「峠までの距離はどれくらい?」
「確か、だいたい10キロくらいだったかと」
  まあ、1時間くらいで登り切れるかな。私はざっくりアタリをつけた。こうしておけば、前に進んでいる限り、到達タイミングの目安が立てられる。
  ジャムパンを平らげて、ボトルをスポーツドリンクで満たし、それでは行くか、とエルコスさんに跨った。

  渓谷沿いに進む道は、やがて道幅を狭くし、木々に覆われた中を進むようになる。静かな峠道かと思ったが、思いのほかクルマやオートバイの往来が多い。
「八千穂や野辺山方面から群馬に抜けるメインルートになっているからですよ」
「なるほど、十石峠は通れないことが多いからか」
  上野村からR299でもよいが、今回通ってきた道を経て下仁田まで出ると、高速も使える。この道は、ツーリングの定番コースになっているようだ。
  さらに登っていくと、いつしか多くの看板が目に入るようになった。そこには、「中ノ沢毛ばり釣り場」という文字が。どうやらこのあたり、渓流釣りの名所にもなっているようだ。
「純粋に釣りを楽しめるようになっているみたいですね。キャッチアンドリリースが原則なのだそうです」
「そういえば神流川全体で、川と親しめるような取り組みをしていたな」
  すると今度は、沢の源流から流れ出る水が、砂防ダムによって滝状になっている場所を見つけた。河原まで歩いて行けるみたいだったので、ちょっと寄り道してみる。
「気を付けてくださいよ。転ばないように」
「ガレ場じゃないし、大丈夫だろう」
  沢の水はキリリと冷えていた。思わず顔を洗い、そして首筋を冷やす。ブルッと身震いするほどに気持ちいい。
「あー、生き返る……」
  ふと空を見上げる。抜けるような青空だった。
  そして、ふと思った。1985年のあの日、あの空を飛んでいたのか、と。
「この世のもので、100%の安全なんてあり得ないのです。100%に近づけることはできても」
「運、みたいなものだろうか」
  偶然にも、当該の便に乗らずに命拾いをした人がいて、その逆もいた。不謹慎な話ではあるが、本当に運なのかもしれない。
「もしこのあと、私に何かがあったとしても、それは運なのだろうか」
「不吉なことを言わないでください!」
「……だな。だけど、もし本当にそうなったとして、私はそれを受け入れることができるだろうか?」
  ぼんやりと空を眺めながら、そんなことを考えてみた。当然の結果だが、答えなんか出なかった。
  ふたたびエルコスさんに跨り、走り始める。一級の峠が本性を見せ始めたのは、ここからだった。急激に斜度が跳ね上がり、ペダルを通じて重力を強く感じるようになった。
「躊躇しないで28Tを使ってください!」
「今回ばかりは、そうせざるを得ないか」
  普段は最後の最後まで使わずにとっておく28Tにチェーンがかかる。それでもなお、重力は私たちを離そうとはしなかった。
「こりゃキツいわ」
「瞬間勾配は10%を超えてます。無理せずにゆっくり登っていきましょう」
「やってはいるが……  さすが一級の峠というだけはある」
  登りの歯ごたえは、ヘタすると乗鞍以上かもしれない。これは一度どこかで写真撮影、と称した休憩を挟むか、なんて思っていると、中ノ沢の自然散策路との交点まで来た。
  さて、あとどれくらい走れば良いのだろうか。私は徐にスマホを取り出した。圏外だった。
「久々に、スゴいところに来たな」
「情報を得るツールは全滅ですね。とにかく峠まで行きましょう」
  写真撮影しつつ、予想以上に負担をかけている足をストレッチ。した矢先に、走る激痛。
「あだだだだだだ!?」
「伸ばして!  とにかく伸ばして!」
  脹脛は攣るし、左膝は痛み出すし。久しぶりに身体へと響くダメージ。
「さすが一級の峠!?」
「冗談言ってないで、ストレッチしてください!」
  ゆっくり、じんわりとマッサージをしていくと、微かに痛みは引いて楽になるのだけど、きっとこの様子ではまた痛み出すだろう。こうなったら、地道に前に進む作戦となるのだが、
「あとどれくらいなんだろう?」
「残念ながら、電波が届かない位置にいるので……」
  確か、エルコスさんは10キロほどだと言っていた。登り始めてからおよそ50分が経過しているので、まあいいとこ半分以上は来てる計算になるのだけど。
「まあ、気にせずに行くか」
  先読みを諦めて、私は前に進むことにした。

  群馬県の最奥、それは、とてつもないところであった。
  この定義に当てはまる箇所は他にもある。あの渋峠も、言わば群馬の最奥に位置する峠だし、碓氷峠や鳥居峠だって同様だ。
  しかし、この上野村から外の世界に出る峠たちは、いずれ劣らぬ「とてつもない峠」だと思う。
「特にどのあたりを指しておられますか?」
「逃げ場がないところかな?」
「なるほど……  確かに上野村を基準にすると、エスケープの手段が乏しいですね」
「こんなところでやらかしたらと思うと……  ゾッとするね」
「できれば考えたくないですよ」
  なんて世間話を続けながら登る。
「峠に至る長い登り、それに、やたらと挑発してくるコースレイアウト」
「一級の峠は、伊達ではないですね」
「個人的な感触だと、たぶん乗鞍よりも手強いかもな」
「そう感じますか……?」
「そう感じるんだが、どうだろうか?」
  人それぞれの主観にも依るが、乗鞍や渋峠を制覇して満足している中級者ほど、この峠は面白いのかもしれない。ここの峠は、制覇したことを自慢できる峠だろう。
「だからこそ、引き返すわけにはいかない」
「もちろんです!」
  そして、登り始めから1時間半で、ぶどう峠林道の交点に差し掛かる。
「峠の名前が冠された林道、ということは……」
「あと、ちょっとということですね」
  ようやく先が見えた。嬉々として脚を回す。そして、いつまで経っても終わらない登り坂。
「どういうことだこれ?」
「おかしいですよね……?」
  途中、ようやく下りに転じたかと思えば、
「なんちゃって峠だったかぁぁぁ!?」
「ああ、山肌に道が見えます」
  楢原あたりにある下り勾配にうっかり騙される始末。それでもめげずに脚を回しているうちに、あることに気付いた。
「エルコスさん見てごらん、紅葉が始まってるよ」
「本当!  もうそんな季節なのですね」
  これから、加速度的に秋が訪れ、やがて冬になり、しばらくこの道は雪に閉ざされるだろう。通れなくなるまで、あとどれくらい残されているのだろうか……
「あ、大先生、祠です」
  唐突に、エルコスさんが声を上げる。そこには、小さいながらに祠があり、そこから遠くに、御巣鷹山の尾根が見えた。
「あと、これを見てください。長野県佐久市と書いてありますよ!」
「え、佐久市!?」
  そんなハズはない。そもそも、佐久市の境界はR299よりも北側だったハズで、こんなところにはないのだが。
「佐久市に至る、という意味でしょうか?」
「うーむ、ちょっと分からないなぁ」
  しかし、この表記が見られたということは、もう少しで長野県、ということでよろしいのでしょうか?
「どうやら、そのようです。あれを見てください」
「遂に来たか……」
  13:33、ぶどう峠着。かかった時間はおよそ2時間。
「……ちょっと待て、明らかに何かがおかしい」
「と、言いますと?」
「本当に10キロしかなかったのか、ということだ」
「そのハズなのですが……  あ」
  エルコスさんはそこで言葉を失っていた。絶句、そして何か見たらしい。私が彼女が向くほうに視線を向けると、そこにあったのが、「国道299号まで17キロ」と書かれた看板だった。
「エールコースさぁぁぁん?」
「違うんです、違うんです、本当に知らなかったんです信じてぇぇぇっ!?」
「やっちゃったねー?(笑)」
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
  私の目の前で、エルコスさんは本気で崩れ落ち、そして頭を抱えたのだった。かわいい。
「い、今サラッとすっごいこと言いませんでしたか!?」
「さぁ?」
  顔を紅潮させている彼女をからかいつつ、とりあえず峠登頂の記念に写真を一枚。最近、峠のてっぺんの写真が増えたような気がする。
「コンテンツでもお創りになるのですか?」
「どうしようかなぁ、それほど登りが得意という訳じゃないし」
  でも、それもいいかもしれない。ちょっと考えておこう。

  長野側の下りは、群馬側と比較して走りやすかった。ただし、アクションカムのマウントが緩まなければ、の話だが。
「だ、大丈夫なのですか!?」
「片手でアクションカム押さえながらのダウンヒルが大丈夫な訳ないだろう!?」
  個人的にイケる!  と思っていたのだけど、どうもこのL字マウント、あまり性能は良くなさそうだ。抜本的改革が必要である。
「やっぱり逆さマウントになるのかなぁ」
「少なくともこういうトラブルは減るのではないでしょうか」
  さて、小海町まで下りてくると勾配は緩くなり、R141交点が見えてきた。ここを左折してしばらく南下すると、ようやく真の目的地である、南牧村に至る。
「そう、みなみまき村にな!」
「ひどい!  まだ言いますかソレ!?」
  傷口を抉られ、エルコスさん涙目。かw……
「かわいい、とか言うの禁止っ!」
「顔を真っ赤にして言うなよ……」
  さて、南牧村までは登り基調の行程になる。ここまでくると補給が可能な店が多く見られ、そろそろ脚が売り切れそうだったのもあって、コンビニに不時着する。
「とりあえず補給だ!」
「あ、あの、大先s……」
  このとき、エルコスさんが何か言いかけたが、スッカラカンの身体は歯止めがきかず、気が付くとガッツリと食料を買い込んでいた。
  一心不乱に食べながら、私はそのことを思い出し、訊いてみた。
「ところで、さっき何か言いかけたけど?」
「あの、いや、ですね……」
  とても言いづらそうに、彼女は言った。
「この先にナナーズがあるのですが」
「……早く言ってよぉソレ」
  この界隈では名の知れたスーパーマーケットのチェーン店があるらしい。あの、川上村にある小綺麗なスーパーだ。たぶん、今食べているコンビニ飯より良いものが食べられたに違いない。
「わ、わたしは悪くないですよ!?  止めるのを振り切って大先生がコンビニに飛び込んでったんじゃないですかっ!?」
「そんなに狼狽しなくてもいいのに……」
  そして直後に、「誰のせいだと!?」と罵られることとなった。
  補給を済ませ、登り基調かつロックシェッド区間をクリアすると、ようやく南牧村の看板があらわれた。15:00のことである。
「ようやく着いたか」
「お疲れ様です。……と言いたいところですが」
  エルコスさん曰く、野辺山周辺の標高は1375メートル。つまり、ここから350ほどアップしなければいけないとのことだ。
「なんじゃこりゃ?」
「この村、野辺山高原のあたりと村役場のある辺りで、標高が全く違うのです」
  その両者を結ぶのが、市場坂と呼ばれる場所で、登り勾配が約3キロほど続く。言わば、最後の難関、というヤツだ。
「もちろん、坂の手前、佐久海ノ口駅で輪行するという選択肢もなくはありません。どうなさいますか?」
「聞くまでもない。初めから野辺山を目指すつもりだったんだろう?」
  ここまで来てしまえば、登ろうが登るまいがあまり差はない。ならば、難関を越えて高原地帯を流したほうが、気分的に快適だろうし、当初の目的は「のんびり高原地帯を流す」だった訳だから。そう決めてしまえば、あとはひたすら走るだけなので、南牧村の役場でエルコスさんを写真に収めたところで、市場坂に挑む。
「まあ、ぶどう峠に比べれば、かわいいもんよ」
「交通量の多ささえ目を瞑れば、ですけどね」
  そんなこんなで20分、これだけあれば、3キロの登りなどあっさりカタが着く。予想していた通り、野辺山の高原地帯は本州離れした美しい景観を呈していた。
「さあ、野辺山まであと少しだ」
「風は少々向かい風ですが、淡々と走っていきましょう」
  野辺山は高原野菜の収穫で栄えた地域。それゆえに野菜畑がそこかしこに広がっているし、収穫した野菜を乗せて走るトラックも多数。
「どこかで見たことあると思ったら、道南のあそこに雰囲気が似ているんだ」
「確かに、あそこも高原地帯ですしね」
  あそこ、とは、今年の9月頭に走った、羊蹄山周辺のことだ。あそこも高原地帯で、そして野菜農家が多数、田畑を耕していた。
  もしかしたら、北海道が恋しくなったらここを走っていればよいのではないか、などと考えてしまうかもしれない。ついでに挙げるなら、並走している小海線も、どことなく北海道っぽい感じがする。ディーゼルカーだし。
「そろそろ野辺山ですよ!」
「JRの最高所はどこかな?」
  ちょうど観光列車が停まっていた。これに乗るのもアリなのだが、指定席料金がけっこう割高だったりする。
  ところで、ちょっと時刻表を見てみたのだが、清里発17:03という文字が目に入った。
「この先のルートは、どうなってるの?」
「線路沿いを走って、最高所地点まで行けば、あとは下りです。30分もかからないと思います」
  なるほどなるほど。私はうなずいた。
「この清里発17:03に乗るか、小淵沢まで走りきるか、いろいろ選択肢はあります」
「エルコスさんのオススメは?」
「野辺山までお連れできたので、あとは大先生に任せますよ」
  それならば、清里で行程を終えて、ディーゼルカーに揺られて帰るのも悪くないだろう。最高所地点からはどう考えても下り勾配しかないはずだが、敢えてそこを走らない、というのも粋なものだ。
「さあ、それでは導いておくれ」
「え……  よろしいのですか?」
  エルコスさんは戸惑っていた。よほど今日の数々の失態がトラウマになっているようだ。しかし、もはや間違えるような行程でもなかろう。
「野辺山と野辺地を間違えるとかってうっかりでも、する気?」
「う……  大先生のバカーっ!?」
  そしてまた余計なことを言って、エルコスさんを泣かせてしまった。

  その後、JR最高所地点を詣でて、予定通り清里から輪行をした我々だったのだが、最後の最後でトドメの一発が。
「だ、大先生ぇぇぇぇ!?」
「ガマンしなさい。混んでるんだから」
  そう、帰りの特急が満席で、自由席がデッキまで人で溢れていたのだ。
「ま、こういう日もあるさ」
「ゴメンなさぁぁぁい!?」
  ドンマイだなエルコスさん。まあ、これに懲りずにまたどこかに行こうか。