水曜日の夜、いつものようにエルコスさんからの催促が。
「大先生、次の土曜日は天気が持ちそうですよー?」
  ……と。つまり、体のよい「連れてって攻撃」だ。とはいえ彼女の気持ちもわかる訳で、特に今年は天気と休みのタイミングが悪くて、恒例の飯給駅にすら行っていない。強いて言えばちょっと前に小田原まで走ったくらいだが、ほぼ平坦な道で、私的にもちょっと物足りなさを感じるほどだ。
  来月には恒例の佐渡、そして、乗る口実を見出すためにエントリーを強行したAACRと、イベントが立て続けにやってくる。ここらで足慣らしをしても悪くなかろう。と、なれば……
「さて、どこに行くかな……」
  私は机に向かいながら、アレコレ妄想し始めた。
「机上の空論、にはならないようにしてくd……」
「わかっとるわい(笑)」

  木曜日の夜、私はエルコスさんに告げる。
「切符は押さえた」
「やたー!  大先生とてもイケメン(笑)」
  なんだろうか、最後に(笑)をつけることで生まれる台無し感は。
  まあ、とにもかくにも、これで土曜日は出撃だ。週間天気予報を見る限り、日曜日は天気が崩れそうなので、なんとか土曜日一本勝負でカタをつけたい。
  エルコスさんにサドルバッグを取り付け、……ええい、輪行袋がついたままだった。一旦外して、キャリアをつけて……
「ところで大先生、今回はどちらへ?」
  エルコスさんが訊いてきた。私は買ってきたばかりの切符を彼女に見せて、
「まっ!  大先生ナイスチョイスです!」
  すっげぇ賞賛された。あまり見たことがないくらいの笑顔で。例えていうなら、三宅センセが倉田亜美の瞳で時々表現すr……
「わたしの瞳はハートマークとか出ませんからっ!」
  あ、聞こえてたか。

  金曜日の朝、通勤経路をちょろまかし、自転車で通勤する。
  というのも、行先が北向きであり、しかも新幹線の特急料金をケチろうと、職場近くから各駅停車で進軍するつもりでいたからだ。こうすれば、一度帰宅して出発するよりも、現地到着に余裕が出る。まだ交通量が増え始めてない第一京浜を、時速30キロほどで流していく。途中の皇居あたりは、流行もあってかご同業の姿が多かった。しかし品川を過ぎていくと、さすがにご同業の姿はあまり見なくなる。エルコスさんが突如、声を上げたのは、そんな時だった。
「あの、大先生……?」
「ん?」
  彼女は、ものすごく申し訳なさそうな声で、こう言った。
「輪行袋が、ないんですけど」
  ……………………
  一瞬だが、事態を呑み込めなかった。そして、もうすぐ職場周辺、というところで、ようやく事態を呑み込んだ。
「輪行袋、積んだっけ?」
「サドルバックつけたとき、外してましたよね……  わたしはそこから先は……」
  つけられるわけがない。そうなると、私がつけたかどうか、であるが、今ならはっきりと言える。
「ヤバイ、家に置いてきた!?」
  無情にも、職場は目の前だ。今から取りに帰ることは不可能。しかし輪行袋がなければ、途中で買うか、出撃を諦めるかしかない。さて、どうしたものか……  と、冷静になって考えてみると、
「そういえば、お古を一個、職場に置いてあったな」
  ということに気が付いた。つまり、輪行袋そのものはどうにかなる。
「ですが大先生、エンド金具がありません」
  と、エルコスさんが指摘する。確かに、輪行袋は買い替えても、エンド金具は10年モノで、それは家に置いてきたほうに収まっている。いつも使ってるL-100は、エンド金具を使って縦に自立させる入れ方を基本とするので、金具がないと変速機で自転車を支えることになる。これでは、ちょっとした衝撃で変速機を壊し、最悪、自走不能となってしまう。
  しかし、この問題に対して、解決策がひとつだけあることを、私は知っている。……やるのは今回が初めてだが。
「エルコスさん、先に謝っとく」
「……イヤな予感しかしませんけど、何とかなるのであれば、とりあえず話は聞きます」

「だ、だ、大先生のバカーっ!」
「ま、普通は怒るよな」
  私は、頭をポリポリ掻いた。横では、尻を……  もとい、リヤ側を上向きにして輪行袋に収まったエルコスさんが、半泣きで抗議の声を上げていた。
  解決策とはまさにこれで、要するにハンドル側から袋に突っ込むスタイルである。これなら変速機が上向きになるので、そこらへんのトラブルは軽減できるのでエンド金具は要らなくなる。しかし、それを凌駕するデメリットがあって、チェーンが上側に来るので油断すると手やら服やらがすぐに汚れることと、ハンドルが接地して自立しているので、とにかく安定しないことが主たるものなのだが、それよりも……
「見た目が左清なんだよなぁ」
「ひどーい!  気にしてたのにぃっ!」
  そう、まるで八つ墓村に出てくる、アレなのだ。まだ、脚が生えてないだけマシなのだけど。
「最近、大先生の扱いがヒドいと思います!  このあいだはお尻を突き出す恰好させられたり!」
  ああ、しまなみ海道のときの話だなそれ。
「もう怒りました。わたしだって仕返ししてやるんだから!  大先生の押し入れの中にあるB5ノートに……」
「わーっ、ちょっと待て話し合えば分かるからっ!」
  なんて痴話喧嘩を品川駅の雑踏の中でおっぱじめながら、それでも袋に収めてしまえば旅の始まりである。高崎線で高崎まで行き、そこから新幹線に乗り換える。……予定だったのだが、
「痴話喧嘩に思いのほか時間をかけましたね」
  ばつが悪そうに、エルコスさん。
  そうなのだ。本来乗るべき列車はとっくに発車しており、今乗ってるのは後発のやつ。これだと高崎で乗り換えた場合、現地到着が22時を回る。今日は現地で宿を押えているのだが、できれば翌日のために睡眠時間は確保したい。そこで、断腸の思いで……
「あ、でも大先生、高崎で乗り換えても、大宮で乗り換えても、特急料金は変わらないみたいです」
「え、そうなの?」
  せっかく断腸の思いを吐露しようかと思ったら、意外な展開になった。エルコスさんのデータベースは間違いないから、これは正しいのだろう。そうであればわざわざ気を揉みながら高崎まで行く必要はなくなった。大宮駅で乗変手続きを取って、大宮から新幹線に乗ってしまう。
「なんか平日なのに混んでますね」
「通勤の足としても需要があるんだろう。ほら」
「あ、高崎でだいぶ降りましたね」
  乗客を減らしてだいぶ軽くなった新幹線は、碓氷の峠を軽快に飛ばしていく。軽井沢、佐久平、上田と立ち寄ってさらに身軽にし、ようやく席が空いたかと思って腰かけると、間もなく長野というアナウンスが。
「大先生、着きましたよ」
「やれやれ……」
  肌寒いかと思っていたが、夏用ジャージと冬用インナーで対応可能な温度だった。駅前で急ぎエルコスさんを復元し、さっさと投宿して休んでしまおう。
  ところが、輪行袋からエルコスさんを出した時、何かがポロっと。
「フロントのクイックか。緩めすぎたか……」
「あっ!  タケノコバネがどっか行っちゃってますよ!」
  確かに。クイックレバーに2つあるはずのタケノコバネが、1つしかない。恐らく、ナットが外れた際に脱落したのだろう。どれどれ、袋のどこかに……
「……あれ?」
「ないんですか?」
  ゴソゴソ、ゴソゴソ。……ないぞ?
「……ない」
「ちょっ……!?  どこか落ちてませんか!?」
  袋を逆さにしたりしても、それらしいものは出てこない。広げた場所の周囲を隈なく見渡してみたが、やはりそれらしいものは見当たらない。落としたのか?  考えられるのは品川で輪行したときくらいだが、あのときはちゃんとナットを付けた状態で袋に収めてるので、あそこに置き去りにしたとは考えられない。
  と、すれば……
「妖怪の仕わz……」
「マジメにやってください!  で、見つかりそうですか?」
「いや……  どこにもない」
  それにしても、輪行袋を忘れた辺りから、続くときには続くものだ。エンド金具があれば、そいつのタケノコバネを移植することもできたのだが、それすらも忘れてきているので、結局タケノコバネが1つ足りない状態だ。
「しょうがない……」
  私はため息交じりに、クイックを閉じた。
「大丈夫なんですか?」
「……ホイールが嵌めにくい」
  タケノコバネ自体は、ホイールを嵌める際のスキマ確保くらいしか効果がないので、ぶっちゃけ言うと、「なくてもよいもの」である。なので、気にしない、というあっさり目の解決策を採ることにした。
  こうして、復元も無事済んだエルコスさんに跨り、宿に着いたのが22時前。まだだった夕食を手近な店で済まし、明日は早いので、早々に眠りについた。


  翌日、すっきり晴れた空の下、私とエルコスさんは善光寺にいた。
  人気はまばらだが、まったくいない訳じゃなく、そこそこ賑わっていた。まずは本堂をバックに、パチリ。
「10年ぶりくらいだけど、雰囲気は変わってないや」
  と、私。前に来たときは、内藤さんと一緒だった。しかも、初めてのロングライドで。
「大先生が自転車に乗り始めて、もう10年ですか」
「あっという間の10年だったよ」
  その間にはいろいろあった。詳細は置いておくが、色々な経験をした。
「果たして、さらに10年後はどうなってることやら……」
「まあ、その頃、わたしはきっと……」
  感慨深いコメントだが、正直返す言葉に困るから、勘弁して欲しい。
  なんとなく収まりが悪くなったので、そろそろ出発することにした。善光寺のすぐ脇から、国道406号に入る。ここを西に向けて走っていくのだが……
「峠までは700メートルほど登ります。35キロくらいの距離なので、3時間くらいかけてゆっくり行きましょう」
  予想通りとはいえ、結構登るなぁ。
「まあ、写真とか撮りながら、ゆっくり行くか」
「しゅっぱーつ!」
  まずは、中間地点の鬼無里まで走り切ろうと思う。だいたい20キロくらいの距離だ。しばらくは登り基調の道が続くも、アウターギアで対応可能な感じだ。
  国道406号は、別名を鬼無里街道といい、かつては長野と白馬を結ぶ幹線道路だった。
「だった、とは?」
「今では県道31号線を通るルートがメインルートになってる」
「あ、あのオリンピック道路ですね」
  かくして、メインルートから外れたこのルートは、交通量が激減したことと引き換えに、のどかな田園ルートとして、観光客を誘致することに成功した、という感じらしい。実際、すれ違うのはツーリング中のオートバイだったり、ご同業だったり。
「なんかいい雰囲気ですね!」
  エルコスさんもご満悦。左清の件は忘れてくれたようd……
「B5ノートに書いてあった、魔炎斬破ってなn……」
「高級なチェーンオイルに興味はないですかお嬢様ぁぁぁ!?」
  やがて、田園地帯が広がる渓谷部を通るのだが、ふと顔を上げると、そこに……
「あ、ダムだ」
  ダムの堤体があった。地図上では、国道に面した場所に管理事務所があって、しかも、ダムカードの配布対象だった。
「寄り道しよーぜ」
「もちろんです!」
  そのダムの名は、裾花ダムといい、長野市の上水道と治水、そして電力をまかなうダムであった。登り勾配でやや暗いトンネルの途中から管理事務所につながる道があったので、そちらに進むと、そこがダムの堤体で、管理事務所があった。
「ダムカード、ダムカード……」
「嬉しそうですね」
  んで、ダムカードをもらうべく、インターホンを押……  そうと思ったら、
「配布、9時からだ」
「あらま。でも、今、8時半ですよ?」
「さて、どうしようかなぁ……」
  待つか、あるいは諦めるか、のどちらかしかないのだが、とりあえず結論は早かった。
「待とう」
「いいんですか?」
  まあ、急ぐ旅ではないから、30分くらいのロスタイムはそれほど影響出ないだろう。
「なーんて、伏線にならなければよいのですけど」
「ま、大丈夫だべ」
  そうして待つこと30分、ダムカードをゲットして、再出発した。
  そういえば、スタート時点で補給食はおろか、水すら仕込んでないことを思い出した。ここ最近の出撃だとその傾向が顕著で、あれだけストックがあったはずの味付きザーメンも、最近ではほとんど口にしていない。
「水分不足で足が攣るって経験したんじゃなかったんですか?」
「すっかり熱さが喉元を過ぎ去った」
  結局、途中の商店で、水は補給した。今日は良い天気で、気温も上昇傾向なだけに、致命傷にならなければよいのだが。
「なんで自分のことを他人のことのように……?」
「たぶん、ぶっ倒れていないからだと思う」
  痛みを知らないと判らない性格の雇用主を嘲笑ってほしい。

  裾花渓谷の手前で、バイパスが出来上がっていたのでそちらに曲がる。国道のほうは、やや標高を上げていくのが見えたので、逃げに出た、というのが本音だけど。
「バチが当たりますよ?」
「トラックにでも撥ねられるってかー?」
  そしたら、本当にバチが当たった。なんと、トンネルを一個抜けた先で、バイパスが終わってたのだ。
「……アレ?」
「ほらー……」
  迂回路を抜けて、国道に復帰するのだけど、そこまでが山間部の農道にありがちな、絵に描いたような激坂。
「うぁぁぁぁぁぁぁ……」
「あ、勾配が10パーセントを越えましたよ」
「うぇぇぇぇぇぇぇ……」
  死者のような呻き声を上げながら、国道に復帰した。たまらず、ボトルの水をガブ飲みした。人心地着いて、どうも水分の抜けっぷりが半端ないことを実感した。
「なんかこれ、ヤバいかも……」
「大丈夫なんですか!?」
  とにかく、いくらでも水が入っていく。入った水がスポンジを湿らせるかのように染み込んでいく。結局、鬼無里までにボトルを空にしてしまい、鬼無里で再度水の補給を行うほどだった。
  トンネルを抜けた先、盆地状の農村地帯。そこが鬼無里だ。このあたりはまだ、ぽつぽつと満開の桜の木が残されていて、目を楽しませてくれる。
「4月初旬がピークなのって、比較的標高が低い首都圏くらいなのでは……?」
  エルコスさんの指摘は正しいと思う。事実、長野原のあたりも桜の見どころは4月中下旬くらいだし、荘川桜に至ってはゴールデンウィークが見頃なのだ。
  そんな桜の花びら舞うところに自販機があったので、水を補給した。
「そういえば、戸隠と並んでこのあたりも、蕎麦が有名でしたよね」
「蕎麦と、あと、おやきとかもな」
「寄っていかないんですか?」
「さすがにまだ早い」
  時刻は10時ギリギリ前。暖簾を掲げていないお店のほうが多い。どこかやってないか、目を配らせながら走ってはみたが、やがて訪れる、鬼無里最後の店。
「ま、また今度ということで」
「残念……」
  道はここから、本格的に登り勾配となる。脚を使い切らないように、こちらもインナーに落としてスタンバイした。なんだか久しぶりにインナーを使うような気がする。
「それに、恥ずかしい話なんだけど……」
「?」
「よく考えてみたら、嶺方峠って、標高1100メートルくらいあるんだよね」
「ええ、まあ……」
「ちょっとした丘越えくらいかと思ってた」
  まあ、これには言い訳がある。昨年10月に渋峠と乗鞍に登頂して以来、そこらの峠道がそれほど難関とは思えなくなってしまったのだ。もちろん、それは幻覚であると判ってはいるし、実際に登ってみたら結構しんどいのは理解しているのだが。
「もはやパンチドランカーですね、登りの」
「こういうの、メモリー効果って言うのかな?」
  どちらかというと、国道が通る峠よりも、山間部の農村のほうが登りはエグイ。そんな気がする。
  そんなパンチドランカー気味な私は、途中途中で写真撮影なんかを挟みつつ、徐々に、徐々にと標高を上げていく。面白いのは、あれだけ翠が生い茂っていた山々が、気が付くと禿げ上がっていたことだ。
「このあたりは、これからが『春』なんですね」
「なぁに、もうすぐさ」
  そんな会話を挟みつつ、九十九折れを登っていく。いくつものカーブを曲がり、いくつもの橋を渡り、いくつものトンネルを抜けると、ようやく、白馬村の文字が。
「……あれ?  ここが峠ですか?」
  周囲を見渡すも、ごく普通の山間部にしか見えない。エルコスさんは困惑した表情を浮かべていた。
「実は、嶺方峠は行政の境界に位置していない」
「……へ?」
「峠の両側は、どちらも白馬村です」
「そうだったんですか?」
「つまり、もうちょっと登ります」
  といっても、ここから先は、その気になればアウター×28Tで対処可能なほどの緩い登り勾配。あっという間に白沢トンネル。そして、トンネルを抜けたら――――
「うわーっ!」
  思わず歓声を上げるエルコスさん。確かに、それに値する。そりゃあ、1977年の某自転車雑誌の表紙だって飾るし、2015年の某自転車漫画にだってネタになるさ。
「まあ、欲を言えば、もうちょっと残雪が欲しかったけどね」
「でもこれはこれで充分ですよ!  大先生、写真写真!」
  という訳で、せっかくなので写真を撮ることにして、私はエルコスさんに跨る。
「……何をなさるんです?」
「知らないのか。嶺方峠の写真撮影には、御約束事がある」
  私は一旦、トンネルを逆方向に走り、洞門の前でカメラをマウントにセット。そして、もう一度トンネルを潜る。
「ああ、車載動画ですね」
  なんて感心しているエルコスさんを尻目に、再度Uターンして、もう一度トンネルに。
「今度は何を?」
「こっちが本命」
  そう伝えてから、私はトンネルに入ったところでエルコスさんから降り、カメラを構える。
「なるほど、トンネル出たらドカーン!  みたいな写真が撮りたかったのですね」
  エルコスさん正解。この展望をただ撮るだけなら容易いが、そこにスパイスを加えれば、また違った味になるというものだ。お陰で、両側にトンネルの壁面を含んだ写真が撮れた。
「大先生!  わたしも入れてください!」
  なんて懇願されたので、さらにエルコスさんのハンドル廻りを入れて、もう一枚。

  満足いく写真撮れた。……のだが、気が付くと峠付近は軽く渋滞しだした。ご同業のほかに、普通にドライブやツーリングの立ち寄りスポットになっているようで、どう考えても通行の邪魔になっていた。
  撮れるものは撮ったので、我々は一足先に下山することにした。嶺方峠の白馬側は、急勾配と荒れた路面で自転車にはキツいかな、と思っていたのだけど、補修工事が頻繁に行われていたことが幸いし、文字通り快走で白馬の市街へ。
「強くブレーキしないでくださいよ?」
「……そう言われると、また聞きたくなるんだけど」
「もーぅ……」
  困ったような呆れたような声を上げたので、それ以上は何も(笑)。
  ただ、道としては長野側から登頂して、白馬側に下山するのが丁度良いのかもしれない。そう思わせるほど、白馬側は勾配がきつめだった。
  ちなみに、エルコスさんに試算させてみたところ、長野市街から白馬までの走破時間がだいたい5時間くらい。これは写真撮影タイムや休憩、ついでにミスコース込みの私の脚での時間だ。んで、白馬発新宿行の特急あずさが14時37分発。東京発6時16分(……か、大宮6時42分)発のかがやき号を捕縛して長野着7時38分に長野に着き、8時から走り始めれば、鬼無里で蕎麦やおやきを楽しみつつ、6時間強の持ち時間で優雅なサイクリングができるではないか!
「……ただ、その行程は完全にパスハントですよ?  どんなブルジョアジーなサイクリストですかそれ」
「メニアックなサイクリスト」
「ををっ!  野ばらさんが召喚されてます!」

  12時をちょっと過ぎたあたりで、白馬の市街地に到着。今シーズンは暖冬だったこともあって、あちこちの山肌に見えるゲレンデは、もう完全に新芽の色。街も、いつもはわんさかいるはずの外国人観光客の姿はなく、休日だというのに閑散とした様子。
「さて大先生、これからどちらに向かいますか?」
  私は地図を見た。このまま大町方面に下れば、途中で蕎麦を食べたりできるし、その気になれば小熊山か、あるいは北アルプス山麓グランフォンドで走った鷹狩高原方面を攻めても良い。ただ、そちらは何度も走ったことがあるので、ちょっと食傷気味な感がある。対して逆方向を見ると、個人的イチオシと名高い、塩の道とスノーシェッド天国ではないか。
「そういえば大先生、以前さくら道を通った時にも仰ってましたが」
「はいはい」
「……スノーシェッドって、そんなにいいモノなんですか?」
  な、なんだってー!?
  私は驚愕した。なぜだ、なぜアレの良さが判らない!?
「い、いや、普通のサイクリストは、判らないと思いますが……」
「ま、そうだよね」
  金髪巨乳のシークレットサービスの人でなくたって、メニアック!  と叫びたくなるようなモンだし。ただ、塩の道自体でみると、最後の自転車走破は9年前。まだ内藤さんが得物だった時代の話だ。あのときは経験値不足に加えて、降雨という悪条件が付加されていたため、現在に至るまでの中でベスト10に入るほどの印象深いものだった。
「どうする?  行ってみるか?」
「イヤだと言っても、行くんでしょう?」
  意地悪そうに微笑むエルコスさんを見て、胎を決めた。国道148号を北上し、糸魚川を目指すことにした。

  ハッキリ言ってしまえば、白馬と糸魚川の間は、ほぼ片勾配である。すなわち、糸魚川に向けて、ずっと下り勾配。
  もちろん所々で登り返しはあるが、基本的に登りで苦しみ喘ぐような道ではない。ただし、別の理由で苦しむことはある。
「だ、だ、だ、大先生ぇぇぇぇぇぇ!?」
「なんだーっ!?」
「こ、怖いですぅぅぅぅぅっ!?」
  半泣きのエルコスさん。それもそうだ。天井ではジェットファンが轟音を立てて回っているし、背後からは観光バスが連隊組んで抜かしていくし、そもそもトンネル内は僅かな明かりで薄暗い上に、足元はほぼ真っ暗で見えないし。そして下り基調ということで、私はギアをかけてフル加速。穴ぼこでも開いていようなら、まあ運が良くても白いハイエースのお世話になるレベルだろう。少なくとも、常識的なサイクリストならチョイスから外すべき道である。……が、
「だが、それがいい」
「ここに前田慶次とかいませんからぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
  エルコスさんは生きた心地がしなかったであろう。

  ちなみにこの話には余談がある。中土駅から国道に復帰してすぐに、外沢トンネルというのがあるのだが、
「このトンネルには自転車乗りにとっての因縁がある」
「な、なんですか?」
  内藤さんと走破したときにも触れたが、2007年にこのトンネル内で、サイクリストの死亡事故が起きている。しかも、犠牲となった方は長野県小川村の方で、ゴールまであと少し、というところでの事故だった。
「ここ、ホントは自転車通行禁止なんじゃないですかぁ!?」
「ただ、迂回路がない。あと、禁止と銘打ってるわけでもないから、通行は可能だろう。事実……」
「事実?」
「明治大学のある一部の学生たちは、年に一回、必ずここを通る」
「ほ、ホントですか!?」
「……あ、いや、通ってた、のほうが正しいか」
「どっちなんですか?」
  曖昧な説明になったのには理由がある。ここは東京-糸魚川ファストランという、高難易度を誇るロングライドイベントのコースとなっていた。過去形で記したのには理由があり、今ではこのコースを通ってないからだ。
「いずれにしても、とりあえず通る」
「どうやって考えても、これ自転車が通ることを想定してませんよね?」
「だが、それがいい!」
「よくないですってば!」
「この魔界っぽさがいいだろ……」
  言いかけて、突如立ち止まる私。突然の展開に、恐怖を隠し切れないエルコスさん。
「ど、どうしました?」
「……足が攣った」
「はぁっ!?」
  右脚の太腿が攣った。あまりに痛いので、一旦縁石の上に避難してストレッチを敢行。登り勾配の薄い左カーブの途中、という極めて危険なシチュエーションだが、とりあえず車道の支障は避けられた。
「だからあれだけちゃんと水分を採りなさいって……」
「え、なに?  何か言った?」
  私たちの目の前を、大型バスが、大型トラックが、大音量のアメリカンクルーザーが、爆音を立てて通過していく。よって、しゃべっている声なんて聞こえない。
「もういやぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
「あ、叫んでたんだ」
  外沢トンネルのほうは、そのあと無事に脱出できた。

  スノーシェッド天国(地獄かも)を抜けて、糸魚川に降り立ったのが14時過ぎ。ハテ、空の色がどうもキナ臭い。
「雨でも降るかなぁ」
  糸魚川駅、アルプス口の前で、ちょっと空の心配をする。
「天気予報では、今日一日は持ち堪えるとのことでしたけど……」
  と、エルコスさん。新駅舎建設の際に移設されたレンガ車庫のモニュメント前にて密談タイム。議題はといえば、ここで輪行するか直江津まで走り切るか、だ。
「持つかな……?」
「まあ、断言はできませんけど、陽の光が見える程度の曇りなので、グッショリ、みたいなことにはならないんじゃないでしょうか」
  と、エルコスさんが提言した。そうまで言うなら、私としては直江津ゴールがしたい。未訪である久比岐自転車道の走破がしたいのと、ほくほく線経由で越後湯沢を経由し、ついでにぽんしゅ館で酒三昧がしたい。ここまででちょうど100キロ走破しているので、残り40キロくらいなら、走った距離的にも丁度良いではないか。
「よし、行ってみるか」
  残りたったの40キロ。何とか雨が降る前に辿り着いてくれ。
  しばらくは国道8号沿いを走るが、何せ北陸路の幹線道路で、バシバシ大型トラックが通る。マナーの良さに助けられているが、どちらかというと、あんまり自転車で走ってよい道ではなさそうだ。そんなことを思っていると、
「大先生、あれですね」
  と、エルコスさんが指し示す先に、自転車道の入口があった。案内看板が高速道路っぽい。
「ここから直江津までは道なりですね」
「道なり、道なり……  と」
  ところが、これが後々妙な勘違いを生むことになった。というのも、
「これ、道なりでいいの?」
「あ、え、えーっと、あ、左側のほうです!」
  パニクるエルコスさん。というのも、この自転車道、至る所で一般道と平面交差する。そのうえ、一般道と並走する箇所まであるのだ。
「もう面倒だから一般道のほう走るかー」
  なんて迂闊な行動をすると、一般道と自転車道がいきなり分離したりするのだ。その上、道一杯に海産物を干していたり、三輪車が道の真ん中に違法駐車してあったりと、そのカオスっぷりは枚挙に遑がない。
「なんなんですかこれ!」
「いやー、実に長閑だなぁ……」
  このあたりは、臨機応変に車道を走ったり自転車道を走ったりすればよいので、それほど苦ではない。ただ、コースロストは起こしやすい。
  しばらく走っていると、エルコスさんが私に話しかける。何か気が付いたようだ。
「もしかして、これって鉄道の旧線跡を使ってませんか?」
  正解。今走っているところは、かつての北陸本線の跡地である。なので……
「トンネルとかも現存してて、通れるようになってr……」
「もうトンネルは結構ですっ!」
  とはいっても、トンネルは遠慮なくやって来る。そして、たいていが薄暗い。
「心配ない。バスとかトラックとかは来ない」
「とか言ってなんで照明が点いたり消えたりしてるんですかーっ!?」
  いや、確かに怖いなこれ。
  集落の中心を抜けたり、一般道と平面交差したり、肝試しとしか思えないトンネルを抜けたりしながら、直江津の手前で自転車道は終わりを告げる。直進すれば郷津トンネル経由で、左折すれば海沿いの道を通って、それぞれ直江津の市街地に出るのだが、
「バイパスは登りか……」
  トラックやバスや、一般の乗用車に至るまでバシバシ通る直江津バイパス。郷津トンネルはそのバイパスにある。一方、海沿いの道は交通量が少なく、道も平坦そう。
「まあ、バイパスを通るメリットはそれほどありませんね」
  という結論となり、左折する。ちょうどこのあたり、五智という地区を通り抜けるようになっているのだが、
「あ、海辺でキャンプしてるライダーがいますね」
「……エルコスさん、我々はなんでそのキャンパーを見下ろしてるんだ?」
  おかしい。なんで登ってるんだこの道。地図を見返してみても、ミスコースしている訳ではないらしい。ただし、地図にはしっかりと、等高線が描かれていた。つまり、このあたりは、ちょっとした小高い丘で……
「気が付くの遅れたかぁぁぁぁ……」
「まあ、バイパス通るよりかはマシだったのではないでしょうか」
  交通量の少ない道の登りほど楽勝なものはない。そういう意味ではこっちのルートで正解だったのだろう。登り切るとそこからは駅まで下り勾配で、やがて見えてくる直江津の駅舎。
「さて、次の列車は……」
  時刻は16時55分。エルコスさんを袋詰めにしようかと、サドルバッグを開けたとき、ゆっくりと発車していくほくほく線の電車。
「あ……」
「あれは16時57分発だから、どうやったって乗れませんよ」
  え、てことは次は何分だ?  調べてみたら、17時55分という。そして、
「あの、大先生、とても申し上げにくいことなんですが……」
  畏まった口調で、エルコスさんが言った。
「ぽんしゅ館、18時で閉まるそうです」
「……ほぇ?」
  メタクソ間抜けな声が出た。今、なんつった?
「4月から春季営業期間に入って、18時閉店だそうです」
「え、だって、確かぽんしゅ館、19時とかまでやってなかtt……」
「あれはスキーシーズンだからです」
「なっ……!?」
  出たよ、驚愕の声が。私から。……てか、エルコスさん、知ってたの!?
「な、な、なんで教えてくれなかったの……」
  驚愕の中から、振り絞るように発した声を聴いて、エルコスさんが取った行動は、
「……をい、なぜ後ろ向いてガッツポーズしやがった!?」
「さぁ?」
  ……やりやがったな。左清とかヨツンヴァインとかの仕返しか?
「いやーわたしもついさっき知ったのでー」
「なぜあさってのほう見て言ったし!?」
  やられた。私はガックリと膝をついt……
「いや、まだだ!」
  叫ぶなり、もう一度エルコスさんを復元しはじめた。
「え、きゃっ、大先生!?」
「甘く見ないでもらいたい。10年前にしたことと、同じことをする」
  そして、組みあがったエルコスさんに跨り、今来た道を引き返した。
  10年前、内藤さんとここに来て、今は亡き急行能登に乗って帰った時――――

  ひもじい思いをした胃袋を救ってくれた、かの聖地へ!
「イトー●ーカ●ーじゃないですかーっ!」
  エルコスさんが叫ぶ。そして私はあることに気が付いて、自問した。
「今日、なんか名物っぽいもの食ったっけ?」
  ……と。